知人に、いわゆる「トンデモ本」の蒐集家がおります。
先日も、ある書籍の付録の「宇宙語一覧表」を見せられ、「毎度なかなかパンチ効いてんなぁ」と思いながら、トンデモ系最先端情報を浴びる状況だったのですが、
一応、サイエンス系の高等教育を受けた身としては、「いや、こんなの真に受ける人いないでしょ笑」とか言って、まずは小馬鹿にするスタンスから入るのですが、冷静に考えると
「あれ、これって自分の言ってることが伝わらないときの構造と同じかも?」
とちょっと背筋が寒くなったわけです。
トンデモ本を小馬鹿にするときって、リファレンスの無さ、つまり学術的な裏付けの無さにツッコミを入れるところから始まるのですが、この根拠付けとして
論文等、充分に実証が為されている
世の中に充分受け入れられている
主にこの二点に依拠しますが、
1はそれが捏造の類だったときのガッカリ感にもあるように、実証が為されていると信ずるに足るのは、自分の知見内の領域において土地勘がちょっとあるくらいで、遠い分野だと、
「ふーん、でもNature, Scienceに載るくらいなんだからきっとすごいし、ちゃんとしてるんでしょ」
と考えを放棄することもしばしば、
2に至っては、フォロワーが多いと「え、もしかして自分の方が間違ってる?」と思わされるわけで、一体自分が信じてたものは何だったの、という虚無回廊に迷い込むこともしばしばです笑。
(これらは、逆説的には悪徳商法の多くが、「エビデンスあります!」と全面に広告を出すのの裏返しですね)
まとめると、自分の中ではおおよそこういうカテゴリになります。
「この本、リファレンスも無いし、人気も無いみたいだから単なる妄想だよね」
というのは良いとして、「え、そんなに読まれてんの?売れてんの?」ってのはカルトっぽく思っちゃうのですが、自分がその「カルトっぽさ」を感じてるのも、自分が信ずるに足る学術的な裏付けが砂上の楼閣だったときに感じるあの世界が崩壊した感とオーバーラップして「あー、とりあえず読んどくか、信じとくか」と、いつのまにか左上の「ふつうの本」にカテゴライズされてることもままあります。
何が言いたいかというと、例えば自分が
「ティール組織の本、良いから読んでよ!」
とか
「ジム・ジャームッシュの映画、世界で一番美しいから観てよ!」
とか
「マリア・シュナイダーの曲、腰の辺りにガンガンくるから聴いてよ!」
といくら声高に叫んだところで、相手方に、上記フレームの右下に位置づけられちゃったら
「お前の言ってること、よくわかんないねー」
で終わるという笑。
*リファレンスは、何もサイエンティフィックな裏付けだけではなくて、例えば業界の権威がフックアップしてるとか、そういうのも含まれます。
*誤解の無いように言及しておきますが、ティールも、ジャームッシュも、マリア・シュナイダーもその業界では絶大なるファン層を形成しております。
だから、トンデモ本を(良かれと思って)自分に薦めてくる知人のその苦しみは、自分が友人にジム・ジャームッシュを薦めて次会ったときに全然観てくれなかったときの虚しさと構造的に同じなのだと思い至りまして、だからといって自分はその宇宙語の記載されたトンデモ本はどうしても理解できず/する気にならず、
「ああ、やっぱりわかり会えないね僕ら」
となっただけの話なのですが笑
まあ、本気で伝えようと思ったら狂信的になるしかないですね。
例えばムハンマドは13年間布教した末に得られた信者は200人(*1)で、当時のメッカの人口10,000人からすると2%。
例えば自分が何かを伝えようとして、「100人中、俺の考えは2人にしか伝わってねぇ」と無力感に苛まれるのは、先人の偉大なる業績を考えれば、自分のその無力感は傲慢という他ないです笑。
キリスト教の聖書なんぞ、(サイエンティフィックな観点で言う)リファレンスは皆無で、根拠レスなストーリーの詰め合わせですし、クルアーンに至っては、ムハンマドは文盲だったのだから、書かれた文書が何なのか、ムハンマド自身には知る術もない。
ということは、リファレンスが少なかろうが、フォロワーが多ければカルトっぽさを経由して世に受け入れられるものになりうるわけで、世の中に自分の狂信性、アイデアを広めようと思ったら、カルトっぽさを受容するか、マニアックな位置づけに甘んじるか、その二種類しかないと思ったわけですな。
ではまた!
*1 「切り取れ、あの祈る手を」(佐々木中著、河出書房新社)
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