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  • 執筆者の写真Kosaku Toyoshima

アーティストとして発狂するか、クリエーターとして人の気持ちに寄り添うか、好きに生きれば良い、ただし発狂は発狂しようとして発狂するものでは無く、気付いたら発狂している

ウサギ狩りをする者を笑う者を笑い飛ばせ、ただし自分の神に背くな、そして倫理とフェティシズムの境界を越えよ


今年もビジネスモデルイノベーション協会の冬の祭典、稀代のスピーカー/思想家が一同に介するイベント「ビジネスモデルオリンピア2020」に参加、毎度情報量がオーバーフロー気味、咀嚼、「寝かし」の期間を置くべきところ、とにかく思考の排泄、つまり書き殴り、を行わないことには食あたりすら起こしそうな勢いであり、まず書く。


喩えて言うと、私は今これを見ているアナタに糞を見せているようなものであって、糞は「努力と同じでするのが普通だが、人に見せるものでは無い」ものであるが、その糞に万が一にも固有価値が産まれ、肥やしになるかもしれぬ、という勘違いと、普段は糞用に手書きの日記に書きなぐるべきところ、早い話が手書きのスピードでは追いつかない程にオーバーフローしているからタイプしている、というだけである。


SNS時代にあって色んな人が書いている、アマゾントランスクライブ、みたいにそのうち喋る傍から文字起こしされる時代が来る。タイピングは手書きより早いが、それでも思考の数秒後に記号化された文字列を視覚から認識するので、思考を再構成する余裕が生まれる。


ところが喋る傍から文字起こしされると、その時差が限りなくリアルタイムになるから思考がさらに加速する。その内、自分が思考したことが記号化されているのか、記号化されていることを思考しているのか判別がつかなくなる時代がやってくる。そうなると人は皆自分のテキストを読むことのみに夢中になり、完全なる心の平穏の時代がやってくるはずだ。


山口周氏の話、真善美の理性的価値から感性的価値への転換、終盤の小山龍介氏の「(ジョン・ラスキンの)固有価値と享受能力」自分が作り出すものが例えば10,000人中1人に価値を分かってもらえたとして、その1人から1億円もらえれば確かに生活は出来る。10,000人中100人に価値を分かってもらえて、その100人から100万円ずつもらうことができれば、貨幣価値的金銭収入は同等であるから生活能力的にはイーヴンになる。


しかしそういう話では無く、そもそも貨幣価値的金銭収入に換算してしまうこと自体が誤謬であり、もらうものが例えば今日の晩ごはんの米だったり着る物だったり、今の自分にとって必要なものでありさえすれば良いというだけの話である。つまり「マネタイズ能力が無いことを嘆かなくて良い」ということであって、単にこの100年くらいの共同幻想を再構築すれば良いだけの話なのだ。


ではなぜ、


「そうは言っても、結局マネタイズ能力ある方がわかりやすいし、何よりモテる指標としてわかりやすいし、明日から今の生活を完全に変えて、完全に『意味の世界』に生きることなんてできないでしょ?」


となるかというと、そこが「承認欲求」と関連してくるから話がややこしくなるのであって、「自分のやりたいこと」と「周りに承認されること」が癒着してしまうと、貨幣価値的金銭収入と決して無縁でいられず、結局人は周りの人に認められること無しには生きてゆけぬのだから、妥協か分別か、「そうは言ってもねー、まあご近所さんと野菜をやり取りしたり、都合つくときには子供の面倒見てもらったり、って交換関係は大事だけど、ベーシックインカム?毎月の生活はジャパニーズエンで考える方が楽なのよねん」となるのはごく自然な成り行きなのだ。


では、「周りにどう思われるかなんてどうでも良いから、自分のやりたいことをやる!」という意味的世界に完全に没入するにはどうするか?というとそれはもう「発狂」するしかないのである。そして発狂は発狂しようとしてするものでは無く、気付いたら発狂しているし、誰しもが部分的には発狂している。


世の社会起業家の、例えばわかりやすい例で言うと、生活に困窮している他国の人(または自国の被災者など)を直接的に救う仕事をしている人を見ると感動する、そして感動して自身として行動を起こさないのは結局「感動の消費」に過ぎない、だからといって「社会的に意義のある活動をしていなければ生きている価値が無い」ということにはならない。なぜならば、人を救うことには意味があるが、その救うことに対し自身でのめりこめて居ない限りはまず自分を救えていない、自分を救うために自分が心の底からのめり込むことがあればまずそれで自分を救うことが必要。そして自分を救うことと、他人を救うことには優劣は無く、他人を救うことで自分が救われるのであれば、無駄に「他人を救っている人が脚光を浴びる世界」に対し引け目を感じる必要は無いのである。


マツコ・デラックスの言う「アーティストとクリエイターの違い」というのは正にここにある。アーティストは人の気持ちは気にもとめず(時には踏みにじり)表現を行う。クリエイター(またはデザイナー)は、誰かのためを思って表現を行う。誤解を恐れず言えば、アーティストは「狂信者」であり、クリエイター(またはデザイナー)は「共感者」である。


だからもしあなたが、「おっしゃ、自分まわりにどう思われようがこれと一生添い遂げるわ」と自信の発狂に迷いがないのであればもうそのまま進めば良いのであって、「やっぱ自分は周りとの軋轢も気になるし〜、世の中の役にたってる実感も得たいし」のであればそうすれば良い、そして両者に優劣は無い。


しかしここで「倫理」という厄介な問題が絡んでくる。発狂した先が例えば「人を殺すことに快楽を得られるから一生人を殺しまくる、それも、なるべく酷い殺し方で。」であれば現代の社会通念からすれば当然許容されない。


話をややこしくしているのが「フェティシズム」で、「倫理」だけであれば社会通念的な話で解決するところ、「フェティシズム」が絡むと途端にタブーという名の空隙が生じる。

人の首を締めることでしかエクスタシーを感じることが出来ない人が居て、それを断罪する、社会規範が拡大・細分化するほど、フェティシズムという名のタブーも拡大・細分化する。今の「アート思考」の文脈が抱えている根本的な矛盾がここにある。そして「発狂」という名のアーティスティック・アクティヴィティーはそれをいとも簡単に超えていく。


「而」という漢字はその「発狂した自己」の最も根源的記号の一つであり、つまるところ「自分なくし」である。敬愛するみうらじゅん氏が言うように、クリエイティヴの所作の本質は「自分を無くし、対象物に向き合うこと」であるから、発狂しようと、誰かに共感しようと、そこにあるのは対象に対する熱狂的な愛情のみであって、ある種、自己を主体とした「承認欲求」なるものはそこに存在し得ないのである。


結局、人は「発狂する自分」と「共感しようとする自分」の「あはひ(あわい)」という矛盾を抱えながら生きていることになる。その「あはひ」を解決しようと日々四苦八苦しているだけであって、言い換えれば人は「壮大な暇つぶし」の中に生きているに過ぎない。そしてこれはポール・ファイヤアーベントの自伝的著作「哲学、女、唄、そして・・・」の原題 "Killing Time" (つまり人生とは暇つぶしに過ぎない)とも合致する。そして、知の所業の頂点を極めたとされる彼であれ、「歌うことで得られた快楽、喜びに匹敵するものを、知的な達成から得たことは無い」と言っている。また彼は、この著作で歌うことの快楽を述べる前に自身の性的不能と性愛的満足感について語っている。つまり彼は、自分が女性を満足させるうる能力を持っていたにもかかわらず、自身がそれを実感することができないという矛盾を抱えており、偉人のそれを以てして自分の「あはひ」のなんたる卑小さよと思うばかり。ついでに言うと、ファイヤアーベントは専門的な学問の内部での、知識の自動的再生産装置と、それにのった知識活動を徹底的に嫌悪し、拒否した。われわれが集う場、語る場も結局はわれわれの想像の範囲内における「専門的な学問の内部」のできごとに過ぎず、そこで気の合う仲間と盛り上がって、「いやー、あの話すげえ感銘的で、ビンビン来ましたよね」と言ってエクスタシーを感じたとしてもそれが何になるのか、という話なのだ。


何にもならない、だから結局は「暇つぶし」なのである。


パスカルは自著「パンセ」の中で、


「ウサギ狩りに興じるものは、ウサギそのものを追い求めているのでは無く、ウサギ狩りという行為自体に興奮していることを自覚出来ていない、とメタ的に嘲笑する者」こそ愚かである。


と述べた、じゃあどうすりゃ良いのよ?メタ的認知を獲得してもメタメタにされるだけっしょ?


というと、結局は「信仰心」であると言った。


なるほどその通りで、自分が信ずるに足る「何か」があればそれが周りにどうこう言われようと馬耳東風になるから、「自分が何を信じられるか」が重要なのだ。つまり現代においては、過去40年共同幻想的に成立していた「労働史観」に対する信仰心が薄まりつつあるのは確かであり、その40年の間シャドウ的に存在していたカルト的な宗教心の功罪(むしろ罪の側面)はここで言うことなかれ、「信仰心」そのものをアップデートする遡上にあると言えなくはないか。


同じく敬愛する菊地成孔氏は「自分の神に背くな」と自身のライヴ・イベントで発言した。自分の神が何か、それは自分にしか語れない。シーモア・パパートの言った「コンストラクショニズム(またはコンストラクティヴィズム)」はここでも有効である。料理の作り方がわからないなら自分で料理してみれば良い、ガンダムの動き方がわからなければ、自分でガンプラを組み立ててみるのが一番の近道だ、この世界がわからないのなら、自分で世界観を組み立てれば良い、話し方がわからないのなら、自分で物語を語れば良い。


つまり、自分の中の自分の神が何なのか理解できないのならば、それを自分で組み立てるしかないのである。そうして組み立てたものがブリコラージュ的なものだったとしても、自分、そして近しい人が "Keep it Real" (つまり何時なんどきでもリアルであれ)と言ってくれるのであればそれで充分なのだ。そうして組み立てた神には自己は投影されないし、投影しようと思ってもできることが無いのである。


そろそろ祭の時間である。

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