アート・クラフト・サイエンス三元論(デザイン思考の限界とは言っても、漂白されたアートばかりの世の中なんてクソ食らえですよね笑)
- Kosaku Toyoshima
- 2018年10月26日
- 読了時間: 6分
更新日:2019年11月8日
ブルームコンセプトの小山龍介さん がシェアされてた記事 (デザインの誤解、デザイン思考の限界)が高密度な良い記事だったんですが、それにインスパイアされまして、やっぱ、アート・クラフト・サイエンスの構造というかサイクル?に自覚的になることで、思考・精神・肉体の健康を保つヒントになるよね〜と改めて思ったわけです。
以下、小山先生がシェアされた記事に触発されただけで、小山先生ご本人の考えとは無関係ですので悪しからず(小山先生先生ファンの方すいません)

この三角形自体は全く新しくないですけど、心技体と対応させたものは未だ見たことなかったのでイラスト化。
(ちなみに真ん中の鳥はバンドのアイコンです。11/4の10周年イベント、こんだけ力の入ったイベント次いつ出来るかわかりませんので、ぜひ来てくださいね。宣伝しつこくてすいませんけど。)
何が言いたいかというと
「お前が何がやりたいの?と、『やりたいこと』を要求されがちな昨今だけど、経験してはじめて楽しさがわかるときもあるからそんなに気負わなくてよくね?」
ということです。
もともとの「デザイン思考の限界」からはちょっと話が飛びますが、何かを成し遂げる、体得するには、上記ループが上手く回っている(もしくは同期している)というのがワタクシの考えです。
「お前がやりたいコトは何なの?その情熱の源泉ってなに?」
「経験は?実績あるの?」
「理論は?なぜそうなるのか説明して?再現性あるの?」
何か新しいコトをやろうとするとき、色んなベクトルで、色んなこと聞いてくる方がいますが、その起点って、アート・クラフト・サイエンスのどこでも良い、というのがワタクシの意見です。
もう少し噛み砕いて言いますと、
アート→クラフト のルートは、「やってみたい衝動が初めにあった。その衝動にかられてやっているうちに体が覚えた」
クラフト→サイエンス のルートは、「(やっているうちに)出来て楽しくなった。そしてなぜそれができるんだろう、、と考えて構造化、体系化した」
サイエンス→アート のルートは「初めに体系的な理論や構造に触れた。それで感動して、もっと突き詰めたい、という衝動が産まれた」
という、どこの起点からでもこのループが周り出せば、例えばアート起点であれば
「衝動→血肉化→理論化→次の衝動へ」というサイクルを回すことができると思うわけです。
なんで今さらこんな当たり前のことを、、?
と思うかもしれませんが、普段ワタクシ、組織人ですけど、
企業に入社するとき(要は就職活動時)はやりたいことの解像度が低い方が仲間に入りやすいのに対し、仲間に入った(入社した)瞬間にやりたいことの解像度を上げることが求められるという、ある種のねじれにさらされるわけじゃないですか。そういうときに、このループを思い出せば、
「うーん、、特段やりたいと思わないけど、まずは血肉にしてみるか、、」
と、まずはやってみることで、結果としてアートに行き着く側面もあるんじゃないか?と思ったわけです。
まあ、ある程度経験積んでくると、「んでお前は結局何がやりたいの?」というのに答えられなければならないわけですが、逆に言うと、このループを回せていないと、「クラフト→サイエンスの間を行ったり来たりしていて、アートを見失ってしまった状態」になっちゃうので、、そうすると、活力ってどうしても無くなっちゃいますよね。
ちなみに、イラストが時計回りになってるのは、ワタクシの個人的な挙動がそうだというのもありますが、反時計回りって、たとえば、
やっているうちにそれが情熱になって、その情熱をもとに理論化しようと思った。
っていうのは考えにくくて、、一回「アート」のフェーズに入るとある種の興奮状態になるので、それから理論化するのってなかなか難しいと思うんですよね、、
同時に、理論を学んでも、それをドライブする「アート」が無いと、やっぱりやってみようという気にならない、、というか、本読んでそれの通りにやって「クラフト」にしようとすることって、、ロボットでも無い限り、やっぱないですよ!
(こう考えると、自己啓発本のほとんどが、理論を提示して、あとはそれをやってみることへのモチベーションを喚起するのに紙面のほとんどを使ってるのを見るとやっぱりそうだと思います。)
デザイン思考は、記事でも言及されていますが、顧客の不満に立脚し、共感をもってそれに対する課題解決策を模索していくので、基本的には「エンジニアリング」の思想に近いと思うのですよ。顧客にプロトタイプを見せて、ソリューションの解像度を上げていくので、顧客ありきというか、
これ言うと、「それって結局プロダクト・アウトなんじゃ?」と言われそうですが、もう散々議論されつくした感ありますが、エンジニアのマスターベーションに近いものがそれだったりして、結局それって独りよがりだったよね、と、その揺り戻しでデザイン思考が脚光を浴びてる背景はよく理解できます。
一方で、アートは個々の内発的動機が源泉なので、言い換えるとまあ「独りよがりな衝動」とも言えるわけです。
じゃあ、アートと、独りよがりの違いってなんなのよ?と。
アートとはなんぞや?偏見混じりに最近の文脈の流れを汲んで言えば、一つには、「世の中・社会に対して課題を提起しうるか?」というのがあると思います。
「最近の文脈の流れを汲んで言えば」とわざわざ太字にしたのは、(個人的には、「アートは、個々人の根源的な衝動を具象化したもの」と思っていますが)冒頭で紹介した記事からもその香りが感じられますが、八百万いろんな衝動がある中で、結果的に社会にその価値を認められたものが後づけでアートと言われているような気がしてるんですよね、、
ともすれば「みんなが価値があると認めたものがアートだよね〜」となり、そうやって「漂白されたアート」もしくは「権威づけされたアート」がデファクト化して、アートの枠組みがそれでしか語られなくなると、、そんな世の中はクソ食らえって思うわけですよ笑
逆説的ですけど、ワタクシがこんな場末のブログでアート論をふりかざしても「アートは世の中・社会に対して課題を提起しうるか?」って言説の力学には敵わないんで、まあそのうち「なんでそんなに怒り狂ってるの?」と言われそうですけど笑
途中から話かわりましたけど笑、まあ何が言いたいかというと
「別にやりたいことなくても(初期衝動としてのアートを起点とすることにこだわらなくても)、やってみたらいいんじゃない?」
というのと、
「大脳新皮質が発達した人たちが提唱する漂白されたアートだけがアートじゃねえから、小脳の囁きにしたがうのもアートだから」
ということですね。
ではまた!
遍く人に、NUMBOUTDUB EXPERIENCEを、
豊島 考作
#アート・クラフト・サイエンス三元論
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